by Kaai SZ

something randomly written

母の死から25年を経て思うこと

1999年9月9日、母の死から25年が経つ。

(日本では)13回忌を超えると現在は親族によってはもう弔い上げと言って法事を行わなくなることもあるといい、ほとんどの場合、33回忌、どんなに長くても50回忌には弔い上げになる。

そういうわけで私の母についても弔い上げが近くなり、なんなら私はあと5年で母が亡くなった年齢になろうとしているのに、いまだに母が亡くなった時の光景を延々と思い出している。こう書くと、「なんでこんなに年数経つのにそんなにくよくよしてるの」という意見が先立つかもしれない、が、人の死、とくに近親者の死はそんなに軽い話で済まされるほどやわなものではない、というのを先に、強く、申し上げておきたい。

 

戦争体験や震災体験などのその凄惨な体験は、ほとんどの場合、ニュースなどのメディアでは「昨日のことのように思い出される」と語られる。それが戦争や震災じゃなくて、例えば交通事故でも、火災でも、レイプでも、誰かの死でも。それが仮に間接的に体験したものであったとしても。一度体験し、焼きついてしまった記憶はそう簡単に消せるものではない。特に人の死が絡む体験は。

…という話は、実際に体験した人にしかわからないものなのかもしれない。

もし、母の自殺の現場を間接的にでも目の当たりにしてしまった私がそれを代弁してもいいのであれば。一つ言えるのは、その記憶は「冷凍された」ように脳裏にずっと存在している。研究などを見るにつけ、それは仮に普段思い出さないものだったとしても、何かの拍子に突然現れて、その記憶をまるでそこにいるかのように再体験させることもあるという。実際、家族の話が出たことによってフラッシュバックが起きてメンタルが崩壊したりしたので、私が経験したものもだいたいこれと同様のものである。

雪山で遭難した人の遺体は冷凍状態で残り続けるために死後中数年を経ても腐りにくく、仮に発見された場合はミイラ化したような状態で発見されるというが、人の記憶も「雪山のように冷たい何かの中にそれぞれが閉じ込められている」という言い方をしても不思議ではない。

母が亡くなる前、通っていた小学校の行事で給食にすいとん(戦時中に配給として配られた食べ物の一つ)を作って近隣の高齢住民にも分けてあげる、という敬老のためのイベントがあり、そこに参加していたうちの高齢者数人がこのすいとんを目の前にして号泣する、という出来事があった。当時はなぜ…?という気持ちになりピンと来なかったが、つまりはすいとんという当時を想起させるものがトリガーになって冷凍されていた記憶を呼び起こしてしまったのだろう。今思えばこのイベントはトラウマを想起させるという点では気遣いの押し付けに取れなくもない。記憶を思い出してしまった側からすると、例えば戦争から50年、60年、70年を経てもそういうショックな体験はそう簡単に消えるものではない、ということが、この話からわかっていただけるのではと思う。

 

(これらの認識を変える上で、今受けているEMDRという治療は大いに役立ったし、これのおかげで、記憶の再体験が辛いと思う気持ちはだいぶ軽減された。ただし施術は現在も進行中なので、その話はもう少し治療が進んでから書ければと思う)

 

このテンションでいけばたぶん私と父は、程度の強弱はあれど、この先死ぬまで母親の死の記憶と対峙することになるのだと思う。そしてその事実は、こうして当事者が「こういうことがある」と伝えるまでわかるものではない。そのせいで、治らない心の傷を押し広げて余計に悪くする人なり出来事のファクターも存在しており、PTSDについての正しい知識が広がらない限り、常にそういうものと戦わないといけない途方もない現実もある。

自分が被害者だ、と声高に叫ぶつもりはない。でも、私が今対峙しているPTSD複雑性PTSDという症状は、誰でもなる可能性があるだけじゃなくて、それが適切に処理されない限り一生残り続ける可能性がめちゃくちゃ高いということを、一人でも多くの人に知ってもらえれば、と思う。

PTSD、CPTSDと生きる、ということ

注:この文章中の複雑性PTSDとCPTSDは同じものを指します
CPTSD = Complex PTSD = 複雑性PTSD です

Intro: 最近のこと

noteとかMediumに書くには重すぎるし、Instagramに書くには長すぎる、SubStackはそういうもの向きじゃないし日本人に馴染みなさすぎる。じゃあどこに書いたらええねん。と思ったが、思いつかなかったのでとりあえずここに書くことにした。多分この内容はそのうち消すかどこかに移動してると思う。

 

4月に、PTSD、および複雑性PTSDと診断された。

実は10代から25年くらい、時折起きる生い立ちのフラッシュバックとその後に襲ってくる謎の体調不良に悩んでいて、10箇所近く病院をあたった結果ようやく辿り着いた診断結果がこれだった、というもので、見た目は元気。仕事もしてるし大学にも在籍してるし休学もしてない。

ただ、わたしのケースは日本だと重症扱いで、どの病院もカウンセラーも、「あなたのようなケースは治療が不可能です」の門前払いで、治療できる人が全く見つからなかったので、治療の可能性を探りにちょっとだけカナダに戻ってきた。
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カナダに戻ってきた理由は、私の症状を複雑性PTSD(以下、CPTSD)では?と最初に疑ったのがカナダのカウンセラーで、その方が有効な治療法と呼ばれるEMDRを提案してくれたから。それと同時に、私がワークビザを申請できる限界の年齢でもあったので、やっぱ日本よりカナダの方が居心地がいいから移住できたらしたいし、という気持ちからくるものもある。

 

私の生い立ちとPTSD

実は私の生い立ちには、主に21歳頃までに、家族からの精神的虐待、母の自死、その他家族以外からの何度かの性暴力、嫌がらせなど、ま〜信じてもらえなそうな数の問題があり、これらのフラッシュバックのせいで中学生くらいから現在に至るまで、1年の1/3〜半分くらいは体調不良で死んでるのだが、それは全部PTSDの症状、とのこと。

カナダにいた頃はそこまでだったのだが、日本に滞在している間のフラッシュバックがひどかった。多分日本語を喋ることによって母親や父親から殴られたりののしられた記憶、母が突然亡くなった時の記憶にアクセスしやすくなっているんだと思う。日本に帰国するたびにフラッシュバックを起こして激弱状態でカナダに帰国し、日本帰国が近づけば毎度情緒不安定になった。

昨年末は極度に忙しかったこともあり特にひどくて、さもうつ病かのように突然涙が出てきたり、こんなにフラッシュバックがひどくなるなら死んだ方がいいのでは、と思うなどまあひどかった。自分の「明るく楽しく平和に暮らしたい」という意思に反して否応なしに起きるので、どんどん気分がふさいだし情緒も不安定だった。その間、私に連絡をくれる人がなぜか何十人といたのだが、どの連絡も返せるキャパが一切なかった。元気と言われても元気とは到底言える状態ではなかった。

 

今は多分バンクーバーに戻ってることもあって多少調子が良い。それでもたまに幻聴があったり、フラッシュバックを起こすと数日寝込んだりする状態なので、会う人を限定することでなんとか心の平安を保っている。

ちなみに両親のそれが虐待だったことはセラピストに言われて初めて知った。おそらく今お世話になっている人を含め5人以上のセラピストに生育歴を話したが、全員に「精神的な虐待」だと認められたし、一番最近病院で受けた心理検査では見事に中度のPTSD+CPTSD症状が認められたので唖然とした。

ただ、カナダに戻ることを決めたタイミングでありがたいことに日本で専門家と呼ばれる人に行き当たり、日本でも治療内容の提案がされた。それとほぼ同じタイミングで最近治療できる人が見つかり治療がようやく始まったので、うまくいけば半年以内に結構よくなる、らしい。

 

このような理由で、連絡は最近ようやく全部返すことができたが、家族とかアイデンティティ絡みの話が一番フラッシュバックを起こしやすいので、多分飲み会とか、新しい人と会うとか、深掘りされる系の会話とかは当分無理だと思う。

PTSD / 複雑性PTSDについて、伝えておきたいこと

25年くらい診断が出なかったのは、 PTSDとかCPTSDに詳しい医師が日本には本当に少ないから。どの病院も薬はくれるけど一時しのぎの手段で、それだと治らない。

(主語でかいのでは、と思う人がいるかもしれないけど、25年の間に全国の10人以上のカウンセラー、10以上の病院にかかっての現在の状態だということは伝えておきたい。国保があるにも関わらずものすごい金と時間がかかっているので父親にも散々「金食い虫」と責められている)
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かつ、日本では私のような人はメンヘラとかで雑に括られたり、「そんなのどうでもいい(興味ない)」「被害妄想」「お前にも落ち度がある」とか言われがちで、安心して誰かに話したり頼れる居場所が本当に少ないと思う。ふとした言動が原因で、意識とは無関係に心のシャッターが降りてしまうこともあって、私でさえ、同じ症状をもつ人を深く傷つけてしまったことがある。
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もし誰かに辛さを打ち明けられた時、どうかアドバイスや意見は脇に置いて、まずは静かに話を聞いて受け止めてあげてほしい。

誰かの話を聞くことって実は思ってる以上に誰かのことを救ってて、私もそういう人のおかげで今日までなんとか生きてるので、話を聞いてジャッジせずに淡々と受け止めてくれた人たちには感謝してもしきれない。
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あと、私みたいなことは予想外の事件・事故・継続的な暴力体験などで意外と誰にでも起こる可能性がある。

もし辛いことがあった時、話を最後まで聞いてくれる人がいるなら、辛いと言葉にして話してほしいし、それが無理なら自分のためだけに最大限の時間を割いて欲しい。辛さは言葉にできるまで癒されないでずっと残るし、ひどいと怒りになって、それを誰かにぶつけてその人がトラウマを負うことで負の連鎖になったりもする。

 

Outro: 最後に

長文だし言いにくい話なので口に出すのをずっとためらってたけど、こういう話は言わないと病気の存在も含めて永遠にわかってもらえないものだ、というのを日本に帰国して骨身に染みて感じたので書くことにした。比較的最近知り合った人はみんな私のことをいわゆる陽キャと勘違いしてるんだな、と思うことがめちゃくちゃあったが、実際はむしろ陰キャでオタクの類である。

見た目めっちゃ普通な人にも、なんならチャラチャラしてそうな人にも実は色々傷がある、なんてことは結構普通にあるはずなので、特に目に見えにくい精神的なものについては、無意識の差別や偏見が少しでも減って欲しい。誰しもの考え方とか生き方が尊重されるべきだと思う。この話に違和感を持つ人だったり、ジャッジメンタルなマインドセットで向かってくる人とはもう付き合えないな、とも思う。

偉そうなこと言ってるのは承知だけど、いち当事者としての体験として伝えておきたい。最後まで読んでくれた方、本当に感謝です。

PTSD

PTSDと言われて思い浮かべるシチュエーション。
事故や事件に巻き込まれる。
戦争や震災など被災経験。
犯罪や虐待被害を受ける。
と言う認識が一般的だと思う。
 
例えばレイプされるとか、震災で被災して自分だけ生き延びて家族や愛する人を失ってしまったとか、事故に巻き込まれて生々しいものを見てしまうとか、そのような体験をもししてしまったらわかりやすく何か後々に症状として残ってしまったとしても何も不思議ではない。
しかし私の場合。直接的に私が現場を目の当たりにするシチュエーションに遭遇したわけではない。けど、その出来事の前後、あるいはそれ以前から漠然と、人間関係においても社会的ポジションにおいても「自信がない」という悩みに苛まれていた。
カウンセラーに話をしてみたところ、特定の体験を思い出し気持ちが不安定になること自体はPTSDの諸症状の一種に該当するという。
以下を私の体験として、なるべく克明に綴ってみる。
 
 
※ここより先の話はフィクションではありません。
同じようなシチュエーションに遭遇され、苦しんでいる方にはその苦しみを助長してしまう内容になることすらも考えられますので、ご興味がある方でもどうか慎重に読み進めて頂ければと思います。ご気分を害されそうになったら直ちにこのページからは離脱することをお勧めします。
また、この件に関してのアドバイスなどは承っておりません。
 
 
私の母は幼少期から情緒不安定な人間だったが、その日よりも2〜3年の間は特に情緒が安定せず、精神安定剤が手放せなかった。安定剤を飲みながらも「私は自分が何かに見られているって暗示をかけられてるんだー」と折に触れて言っていた。
当時、「リップスティック」というドラマで、井川真白という少女が鑑別所からの出所後、父親からレイプを受け、自分に居場所が無いことを悟り飛び降り自殺するというシーンがあり、
それを見てから数日「私も真白になっちゃうんだ」とうわ言のように呟いていて、母がいなくなることを恐怖に感じていた。
当時私は仲良くしていたはずの友人から無視されたりものを隠されりして傷ついてしまったことをきっかけに長い間不登校で、母親が送り迎えしてくれることを条件に短時間だけ、あまり人と会わないように学校へ行っていた。
 
母が亡くなったのは私の誕生日の1週間後。
この日、私は久しぶりに学校へ行くと言い、母に学校まで送ってもらい、昼過ぎに迎えに来てもらうのを待っていた。
しかし、昼、体育の時間を終えて保健室で母の迎えを待ったが、21時を過ぎても母は来なかった。
父と祖母、祖父が来たのは夜、非常に遅い時間だった。なぜか校長室に呼ばれ、なぜか母ではなく父が迎えに来た。
何事かと思ったが開口一番、父は「お母さんが死んじゃったんだ、突然」と言った。
やはり、と思った。
でも、なんでと聞いた。理由は教えてもらえなかった。
 
自宅はマンションの8階だった。帰ってトイレの扉を開けた時、かなり強い塩素の匂いがした。
トイレのウォシュレットのリモコンのボタンの色が、朝見たのとまるで違う色に変色していた。サンポールとハイターが空だった。しかし、母の死体らしきものの跡はどこにもなかったので、すぐに塩素ガスで自殺を図ったが死ねなかったから飛び降りた、とわかった。
後でダイニングテーブルで目にした葬儀の案内の表紙には紫色の紙に墨で「12時4分死去」と記されていた。またさらに、葬儀の後に友人の一人から、母がベランダから飛び降りていたことを知らされたため、推測は確信に変わった。
私が外にいた時間に、母は一連の推測通りの行動により亡くなっていた。
私が目を離したすきに死んでしまった。自分が母を死なせてしまった。そう思っていた。
父に泣かれても、祖母に泣かれても、自分は葬儀の最中まで、心の中で謝罪するのみで泣くことができなかった。
 
母が棺桶に飛び降りたとは想像がつかないほど綺麗に納まっていたこと、斎場で荼毘に付された後に何も感じることができなかったこと、クリスチャンだった母親の葬儀では賛美歌が賛美され、その一節だけが克明に思い出されること、それ以外はあまり思い出せない。
母は死んで楽になったのだろうか、と言う疑問、そして私に何か幾つかの嘘をついてこの世から去ったのではないだろうかという疑惑の念を持ったまま、私は大人になった。
 
 
母が他界してから今まで、その出来事を忘れられたことがなかった。
死後幾分も経ち、何となく思い始めたのは「自殺とは信頼する人間への最大の裏切りである」ということだけだった。
ただ、それ以外のことは出来事の一部始終を思い出すまでで、何かショックな出来事に遭遇するたびそれがトリガーとなってここまでの一連の出来事がフラッシュバックするようになっていた。
 
PTSDはPost Traumatic Stress Disorderという正式名称の英名が指し示す通り、トラウマが関連する障害につけられる病名で、日本では心的外傷後ストレス障害という呼称により、事故や事件、災害の被害者に患者が多いとされるが、何もそれだけが理由たり得るものではないという。
ただ、他の病にも言えることとして、その病名がついたから症状の程度がひどいのでどうこう、ではなく、あくまで治療の指標としてその病名が使われるだけのことであるということ。
私のカウンセリングのセラピーには、おそらくそのような理由から、PTSDの治療で用いられる持続曝露(exposure)療法が非常に有用だった。
カウンセラーの元では追体験を言葉にすると同時に、「もしその状況に直面したあなたの側に今現在のあなたがいたらどうしたいか」という質問を投げかけることで、この状況が過去のものであり、今の自分にはそれを解決できる能力が備わっているということを確認させる行為が取られる。
少なからず効果を発揮したのか、話し終えた後の涙の量と安堵はいつも以上だった。
しかしながら、自信がないのはその体験だけが理由ではないだろうということ、また、何か追記で思い出すことがあるかもしれないことからも、この治療は継続するという。
ここには忘れることがないようにというメモ的な意味合いと一種の記憶の整理として今日の出来事を記しておきたい。