PTSD

PTSDと言われて思い浮かべるシチュエーション。
事故や事件に巻き込まれる。
戦争や震災など被災経験。
犯罪や虐待被害を受ける。
と言う認識が一般的だと思う。
 
例えばレイプされるとか、震災で被災して自分だけ生き延びて家族や愛する人を失ってしまったとか、事故に巻き込まれて生々しいものを見てしまうとか、そのような体験をもししてしまったらわかりやすく何か後々に症状として残ってしまったとしても何も不思議ではない。
しかし私の場合。直接的に私が現場を目の当たりにするシチュエーションに遭遇したわけではない。けど、その出来事の前後、あるいはそれ以前から漠然と、人間関係においても社会的ポジションにおいても「自信がない」という悩みに苛まれていた。
カウンセラーに話をしてみたところ、特定の体験を思い出し気持ちが不安定になること自体はPTSDの諸症状の一種に該当するという。
以下を私の体験として、なるべく克明に綴ってみる。
 
 
※ここより先の話はフィクションではありません。
同じようなシチュエーションに遭遇され、苦しんでいる方にはその苦しみを助長してしまう内容になることすらも考えられますので、ご興味がある方でもどうか慎重に読み進めて頂ければと思います。ご気分を害されそうになったら直ちにこのページからは離脱することをお勧めします。
また、この件に関してのアドバイスなどは承っておりません。
 
 
私の母は幼少期から情緒不安定な人間だったが、その日よりも2〜3年の間は特に情緒が安定せず、精神安定剤が手放せなかった。安定剤を飲みながらも「私は自分が何かに見られているって暗示をかけられてるんだー」と折に触れて言っていた。
当時、「リップスティック」というドラマで、井川真白という少女が鑑別所からの出所後、父親からレイプを受け、自分に居場所が無いことを悟り飛び降り自殺するというシーンがあり、
それを見てから数日「私も真白になっちゃうんだ」とうわ言のように呟いていて、母がいなくなることを恐怖に感じていた。
当時私は仲良くしていた友人から無視され、傷ついてしまったことをきっかけに長い間不登校で、母親が送り迎えしてくれることを条件に短時間だけ、あまり人と会わないように学校へ行っていた。
 
母が亡くなったのは私の誕生日の1週間後。
この日、私は久しぶりに学校へ行くと言い、母に学校まで送ってもらい、昼過ぎに迎えに来てもらうのを待っていた。
しかし、昼、体育の時間を終えて保健室で母の迎えを待ったが、21時を過ぎても母は来なかった。
父と祖母、祖父が来たのは夜、非常に遅い時間だった。なぜか校長室に呼ばれ、なぜか母ではなく父が迎えに来た。
何事かと思ったが開口一番、父は「お母さんが死んじゃったんだ、突然」と言った。
やはり、と思った。
でも、なんでと聞いた。理由は教えてもらえなかった。
 
自宅はマンションの8階だった。帰ってトイレの扉を開けた時、かなり強い塩素の匂いがした。
トイレのウォシュレットのリモコンのボタンの色が、朝見たのとまるで違う色に変色していた。サンポールとハイターが空だった。しかし、母の死体らしきものの跡はどこにもなかったので、すぐに塩素ガスで自殺を図ったが死ねなかったから飛び降りた、とわかった。
後でダイニングテーブルで目にした葬儀の案内の表紙には紫色の紙に墨で「12時4分死去」と記されていた。またさらに、葬儀の後に友人の一人から、母がベランダから飛び降りていたことを知らされたため、推測は確信に変わった。
私が外にいた時間に、母は一連の推測通りの行動により亡くなっていた。
私が目を離したすきに死んでしまった。自分が母を死なせてしまった。そう思っていた。
父に泣かれても、祖母に泣かれても、自分は葬儀の最中まで、心の中で謝罪するのみで泣くことができなかった。
 
母が棺桶に飛び降りたとは想像がつかないほど綺麗に納まっていたこと、斎場で荼毘に付された後に何も感じることができなかったこと、クリスチャンだった母親の葬儀では賛美歌が賛美され、その一節だけが克明に思い出されること、それ以外はあまり思い出せない。
ただその賛美歌の一節は「清き岸辺にやがて着きて」。
母は死んで楽になったのだろうか、と言う疑問、そして私に何か幾つかの嘘をついてこの世から去ったのではないだろうかという疑惑の念を持ったまま、私は大人になった。
 
 
母が他界してから今まで、その出来事を忘れられたことがなかった。
死後幾分も経ち、何となく思い始めたのは「自殺とは信頼する人間への最大の裏切りである」ということだけだった。
ただ、それ以外のことは出来事の一部始終を思い出すまでで、何かショックな出来事に遭遇するたびそれがトリガーとなってここまでの一連の出来事がフラッシュバックするようになっていた。
 
PTSDはPost Traumatic Stress Disorderという正式名称の英名が指し示す通り、トラウマが関連する障害につけられる病名で、日本では心的外傷後ストレス障害という呼称により、事故や事件、災害の被害者に患者が多いとされるが、何もそれだけが理由たり得るものではないという。
ただ、他の病にも言えることとして、その病名がついたから症状の程度がひどいのでどうこう、ではなく、あくまで治療の指標としてその病名が使われるだけのことであるということ。
私のカウンセリングのセラピーには、おそらくそのような理由から、PTSDの治療で用いられる持続曝露(exposure)療法が非常に有用だった。
カウンセラーの元では追体験を言葉にすると同時に、「もしその状況に直面したあなたの側に今現在のあなたがいたらどうしたいか」という質問を投げかけることで、この状況が過去のものであり、今の自分にはそれを解決できる能力が備わっているということを確認させる行為が取られる。
少なからず効果を発揮したのか、話し終えた後の涙の量と安堵はいつも以上だった。
しかしながら、自信がないのはその体験だけが理由ではないだろうということ、また、何か追記で思い出すことがあるかもしれないことからも、この治療は継続するという。
ここには忘れることがないようにというメモ的な意味合いと一種の記憶の整理として今日の出来事を記しておきたい。